続・テレビなこと

ええと、民放の大手なテレビ局が教育について力をいれた一週間を始めたらしいです。とりあえず、今夜の番組を見ていたわけです。
まぁ、先生ってのは現状をなんとかするのに精一杯なんですな。でも、教育再生とかを考えるには社会全体がどうあるべきかっていう理論が必要なんじゃないかと思った。社会が根本的に何を必要としているか、どういった人材を必要としているか、これからの日本を支える人間になにが必要かってことを置き去りにしていては改革も再生も枝葉末節論になってしまう。
僕はお互いの素養を活かせる人間社会が必要だと思うのですよ。得意不得意を補いあえるような世の中でないと、今の社会は複雑過ぎる。相互理解とかそういったものですね。別に書類の整理が得意な人が必要だとか、人付き合いがうまいひとがいるとか、コンピューターの技術が優れているとかそういったことは強制しても仕方ない。学校ってのはもっと基礎の部分の教育を行っているんですよ、その教材として日本人及び国際人としての教養を付けるためにいろいろな授業をやっているんですよ、とかですね、学校のスタンスを国が指導しないとダメだと思った。
受験の問題にしてもそう。受験は学力を飛躍的に向上させるための競争ですよ。でも、それも行き過ぎると死活問題になってしまう。受験のための勉強方法と他人をおとしめる能力の高い人間ばかりが育ってしまう。学力偏重な社会構造じゃダメだってことは実社会は痛いほど知っている。受験というものの本質も見直さないといけないと思う。
近頃終身雇用が崩壊してから企業が人を育てるということがよく取沙汰される。くそくらえだ。教育は社会に出る前に行われるべきだ。
技術や人脈の話をしているのではない。根本の話。社会の理念にのっとった社会の姿を学校で教えるべきだ。生徒に責任と評価をあたえ、自ら判断させ生きている実感をもたせないとダメだ。そもそも、子供が犯罪を犯した場合に関する責任の取かたも考え直さないといけないと思う。今のままでは甘すぎる。これではやったもの勝ちな社会であるから好きなように生きろと言ってるも同然だ。犯罪や暴力に関してはそれ相応の罰則があってしかるべきだ。
そういった社会に対する認識の教育を家庭の教育ばかりに頼っていては格差が出る。将来の日本人に必要とされる能力は自分で考え、自分で判断する力ではないだろうか。そして、学校がすべきことは各個人の身の丈を知ることの手助けと自分で考え自分で判断する本当の自立への支援ではなかろうか。
人間にはそれぞれ得手不得手がある。それをうまく活かしていかなければ日本に将来はないと考える。教育は未来を支配すると言っても過言ではない程重要なものだ。国がすべきことは基本スローガンをもう一度見直すことだ。そこから初めて欲しい。
少なくとも公立の学校の先生の雇用主は政府であり国民である。社会に必要とされる人間の教育に寄与できない教師には社会から厳しい裁定があってしかるべきだ。資本主義社会の日本において長年日教組が共産反日教育を施してきた事実もあるが、教師への政府からの裁定は厳しいものがあってもしかるべきと思う。さらにいえば有能な教師にはそれなりの報酬も支払われるべきだ。現場の教師が教頭や校長よりもいい給料をもらっていても、彼彼女が優秀ならばそうあるべきとそれくらいのことを認めてもいいと思う。
教育のことを論ずるのは社会を論ずることだと思う。未来の社会へのヴィジョン無しに教育を語るのは片手落ちだと思った。