巡るカルマ

前回のエントリーを繰り返し読み直していた。そこで、もし、あわよくば、今までのように致命的なトラウマをくすぐられることもなく恋愛なんぞを成就した自分を想像してみた。
たぶん、街中でイチャイチャしたくなるな。誰かの前で見せびらかしたい衝動に駆られるな…。
今まで、人がイチャイチャしてる(というか、ちょっとベタベタでも十分)光景を目にすると何故か心の中をえぐられて空虚にされ、自分の存在に対する絶対的な不安感をもたされる。というか、それだけで充分な生命の危機を感じているというのがしかるべき状態に陥っていた。
これは完全な幼少期からのPTSDなのはわかっている。が、しかし意味のない不安に襲われるのは動かざる事実だ。そして、そこでイチャイチャしているカップルに生命力を食べられたような錯覚に陥る。その後の落ち込みっぷりや、ヤケクソ具合からいっても俺にしてみると"生命力を食べられていた"のであるけど。
それ以上に人生をそれで狂わせつづけてきた。今まで一生懸命してきたことを全てブチ壊しにするのはいつも人のイチャイチャを見たり、好きな人が他人に抱かれていたり、他人に性的サービスをしてるのを感覚的に察知したあとである。それほどに他人のイチャイチャで多くを失ってしまった。
そこで、"右の頬を叩かれたら左の頬を"なんてこと、絶対に考えられなくなった。自分に伴侶ができれば、ようやっとチャンスを得たのだから、世間に一人前と認めてもらってようやっと他人から生命力を返してもらうチャンスと言わんがばかりに自分が苦しめられたことに復讐をはじめたがるに違いない。
自分がとても幼稚なことを言っていると世間の人がいうのはわかっている。世の中の理論に精通した人なら俺のような人がいると自分の幸せを享受できなくなから先手を打つのだろう。もしかしたら、そこで俺をいさめることが俺の幸せにつながると本気で考えているのかもしれない。
がしかし、世の中は本当に喰うか喰われるかの残忍で残酷なものである。俺がこの30年余りで感じてききたことはまさにそれそのものだ。特に日本人は男女の関係において治外法権的にその傾向が強くなる。男女の恋愛のドロドロが身近に起こると誰も信じられなくなる。みんな一斉に人間としての品位を失い獣となって喰うか喰われるかを実践する。海外で暮らしてわかったが、アジア人は全体に家族とか恋愛対象を守るという意識を持つと我を見失い獣と化すことが特に多かったように思う。
そして、俺のように実際にそのドロドロの最中で起きたことが原因で病気になったりダメージを負った人間にとってはいつか、その貸しを返してもらいたくなるものである。本当に人生ボロボロだ。
今までずーーっと、チャンスが無かったのもある、そして復讐すれば世間が悪くなると思ったから全くもってその奪われた生命力を返してもらっていない。
要はお人好しすぎたのだ。獣には獣なりに接してしかるべきと思うようになった。
俺は実はカルマ論者だ。自分のしたことはいいことも悪いことも全部自分に跳ね返ってくると思っている。他人も同様だ。その行動は絶えず水の波紋のように寄せては帰ってくると思っている。波紋と違うのは他人は生きているのでそのカルマの波紋は絶えず自分が発したときより大きなものとなって帰ってくることである。そして、ときに人は自分もしくは他人の発したカルマに振り回されて自分で思うように人生をコントロールできなくなることもある。と思っている。
今まで俺は悪いカルマを返さないようにその大部分を自分で受け止めてきた。"ひとのせいにするな"と叱られた幼少期からそうしてきた。でも、もう俺の受け止めれるカルマは限界に近くなってきたのだろう。チャンスがあれば今までに溜った悪いカルマを放出したがっているのだと思う。それ以上にこれ以上自分がカルマを受け止めてその波紋を消してしまえば皆がそのカルマについて学ぶ機会を奪ってしまうことになると思っているいのかもしれない。いや、むしろもう自分のコントロールの限界を越えるカルマを背負ってしまったのかもしれない。人にされた嫌なことは決して人にはするな。これは正しいことだ。しかし、それは自分に許容できる余裕があるときのみにできることだ。限界を越えれば人間は限界を越えた行動をするしかできなくなる。
結局色々なことを限界まで耐えてみたが、よろしくないと思うようになったようだ。自分のことしか考えられない人がふえすぎてしまって、馬鹿馬鹿しくなったのかもしれない。
理想はみなが社会全体のことを考えて社会をよくすることだと思う。社会、環境がよくなればおのずと自らは幸せになれるはずだ。というか、社会、環境という周囲が自らを幸せにしてくれるはずだ。それが理想の幸せであり、本当の幸せだと思う。
がしかし、俺の身の回りは手遅れかもしれない。ここまで追い込まれてしまった。もう、社会云々よりも目の前の苦痛を解決することで手一杯だ。俺の回りは社会、環境について考える人が少なかったようだ。自分の住む環境に興味の無い人に配慮してもしかたない。
最近こんな言葉が口ぐせになっている「もうどうでもいいや。(他人を気遣うのは)やめにしよう」。
あまりに多くの獣を見すぎた。そして、その獣を飼育したのは自分を含む社会である。自分にも責任の一端があるのは認める、自分もその社会の一員だからだ。そして、こんなことをいうと、責任を認めたのはアイツだ、自分には責任は全くないと言い逃れするアホウがでることも知っている。そのアホウという名の獣を飼育したのも社会である。その構成員全てに責任があることを忘れてはならない。
これ以上獣を増やしてはならないけど、これより先は誰か気がついた人ががんばってくれ。俺の役名は終わったのだと感じるのだ。というか、終わりにさせていただきたい。あまりに生きていることを楽しめていない自分がミジメなのだよ。チャンスがあれば皆がそうしてきたように人生を楽しみたいと思う。
可能ならば、小さな幸せを手に入れたいと切実に思う。がしかし、少し手遅れかもしれない気もする。色々と多くのものを背負い過ぎた。このままでは幸せになれないのは判っている。でも、どうしたらいいかなんて遠くにある答えを追う気にはなれない。
こうして、みな自分のことしか考えられない人間の仲間入りをしていったのかもしれない。ならば、せめてこうして純粋だった自分の遺書をここに残しておくのがせめてものつぐないかもしれない。