これでこのコーナーは最期。最初から失恋してなかったと思うことにした。

以前にも検証したが、「失恋」とは恋を失うと書く。そう思うと私はこのブログを始めた時点はおろか、今でも「失恋」はしていない。ずっと片想いで、相手のことを大事に思うからこそ近寄れなくなってしまっても、それは失恋ではないのだ。
私はあの人をずっと愛していこうと思った。それが「愛を貫く」ということだ。無理して自分の思いを殺すことはしてはいけない。かといって相手の迷惑をかえりみない行動をするのはもってのほかだ。だがしかし、心の中は自由だ。誰にも干渉できるものではない。
だから、ひっそりとでも良い。いつまでもあの人を愛していようと思った。それが今自分が選択できる唯ひとつの幸せへの選択だと思う。べつに結婚して子供をつくるとか、セックスの経験を積むことが絶対的幸せであるとは思わなくなった。好きでもない女と何をしても不幸になることのほうが多い。不幸のあるところに幸福があるとは思えない。
この、読まれているとも読まれていないともつかないブログに愛情を書き連ねるだけでも、何もしないよりましだ。自分への努力だ。すべてのサイを振ってしまった私にはここに愛情をツラツラと書くしか選択肢がないのである。
現実を見据えるとそういうことだと思う。何をしても、私はあの人に一旦ふられたのである。ふられたものがあの人の周りでなにか力になろうとしても、それは迷惑というものだ。あるいは、あの人に愛されていたとしても、あの人の意志を受け入れて私はふられたのだ。本当の意志が別のところにあるならば、それはあの人が私になにかしらの表現してくれるまで何もすべきではない。むしろ、何もしたくない。それが自尊心だ。私の愛はこうして実らぬものでも、密かに表現するということろに集約されているのが現実だ。今はこれしかないのである。
それでも、自分に嘘をつくよりマシだ。
だから、たとえこのままでも構わないと思った。
ただ、自分の欲求に素直になるべきとも思う。だからあえて書いておく。あの人にもう一度会いたい。もう一度会って話がしたい。もう一度二人の関係を構築しなおしたい。
私は相変わらずあの人を求めている。その気持ちは変わりないが、現実はそれを許してくれない。現実は現実でたったひとつのものだ。その解釈はひとそれぞれかもしれない。そして、その現実の陰にある本当の気持ちというのを私は知らないのかもしれない。それでも、現実は受け入れるべきと思う。
ただ、自分の気持ちも現実だ。半年近く顔を合わせていないような人をまだ愛している。これのどこが悪い。これが私の現実だ。
そして、誓う。努力を怠らないようにしよう。世間一般に言われているような情けない失恋未練たらたら野郎でもいいと思う。それが恥ずかしいからと自らの愛をどこかへ放り投げようとするよりはよっぽどマシだ。
これでいいのだよ。きっと、これこそ正しい姿なのだよ。



最期に失恋で苦しんでいる人がいたら、こう言いたい。繰り返すようだが「心の中は自由だ。誰にも干渉できるものではない。あなたが誰かを愛しているなら、その愛情を無理して抑え込む必要はない。ただ、相手に迷惑がかからないように最大の努力をすることだけは忘れないで欲しい。相手に迷惑をかけないということも愛のカタチなのだから。そして、それが愛情によるものだと相手に伝える努力だけは怠ってはいけないと思う」。
やはり、失恋とは恋を失うことであって、恋愛がどうしようもないような難局にブチあたることとは別ものだと思うようになった。本当の失恋とは自らの意志で、欲求として恋を自然に捨てることだと思う。つまり、うまくいかなかくなった恋となんの躊躇もなく決別するときだろう。
愛の形はひとそれぞれだ。別に相手が死んでいようが生きていようが構わない。納得するまで相手を愛することこそ重要に思えてきた。
そして、どんな形にせよ誰かを愛するということは素晴らしいことに思えた来た。

これが私の失恋にたいするひとつの答えだ。失恋のキーワードで検索でもしてきた人がいたら是非参考にしていただきたい。