ひさびさに見る顔(御尊顔と書くべき?)

私は何も隠さずに昭和生まれです。そして、昭和の記憶もそれなりにたくさん持っている年頃の♂であったりします。でも、戦争の記憶はもっていません。ちょうど私の生まれたころというのはオイルショックの前後らしいです。
私が子供のころ、ニュースやら新聞やら教科書で見た天皇の写真や動画というのはいつも昭和天皇でした。天皇というと今でもあの昭和天皇のほうがなんとなくシックリくるのが不思議です。子供のころの刷り込みなのかもしれまんが、やっぱり天皇といえば昭和天皇なのですよ。
その昭和の天皇陛下の映像が今日はやけにテレビに登場している。なんでも、昭和天皇の発言をメモしたものが公表されたとか。
うちの親父というのは昭和のヒトケタ生まれのお人でして、私は大変遅く生まれた長男でした。
昭和天皇というと、私が思い出すのはあの記者会見で泣きながら謝っている姿です。そして同時に、その姿をみてテレビに向かって「腹を切れ! 腹を!」とまたハラワタを煮えたぎらせて怒っている父の姿も同時に思いだされます。
そのとき「父は恐ろしい人だな」と心の中が震え上がったのは今でも忘れられません。父には何をどう謝っても許してもらえない、自分も腹を切る覚悟をしておかないといけないと思ったものです。
父のことが全く理解できなかったので、少しでも理解しようとして何かを聞いた覚えがあるのですが、「お前には解からんのだよ、そういう話をして解かるような問題じゃないのだよ。謝って済む問題じゃないのだ」という答えしか帰ってこなかったのを思い出す。そして、こんこんと歴史の話。歴史の話はまるで教科書のようでそこにある気持ちの話は出てこなかった。父の気持ちは結局解からずじまいだった。ただ、そこに残ったのは恐怖感だけだった。
結局父はいつまでも心の中で戦争をしていたのだと思う。それが僕のたどり着いた結論だ。
靖国で眠っている英霊たちはどうだろうか? 生前に政治家だった人に今でも政治をさせてしまってはいないだろうか? 生前に軍人だった人に今でも戦争をさせてはいないだろうか? 
結局現状はいまだに戦争や政治をさせているのだろうと思う。あの靖国に眠る英霊のかたがたから何を学び、実行するか。残され、新たに生まれたものは何も総括をできていないように感じる。
ただひとつ、僕が思い出したのは「生きることによって責任をとる」ということを身をもって示された人物がいたこと。心のそこから頭をさげ、人と誠心誠意話をし、生きることで人々を元気付けてくれようとした人がいる。それが昭和天皇だったと思っている。
それまで「お国のために死ぬこと」「腹を切って責任をとること」を誇りとしてきた日本人に「生きる」ことの手本となろうとしたのが昭和天皇だったのではなかろうか?
近頃の天皇家というのはなんだか、マスコミというブリーダーの育てる犬一家のような扱いをうけている。ひどい扱いだがそれは新しい皇室のあり方かもしれない。しかし、戦争の総括ができていない日本人に再び戦争の総括をする必要があるならば、もう一度昭和天皇の戦後も振り返らねばならないだろう。
このような話題、議題で昭和天皇を持ち出すのは昭和天皇にまだ仕事をさせているようなもので心ぐるしいかもしれない。
でも、いっしょに太平洋戦争を戦った英霊にいまだに戦争をさせているのである。昭和天皇のために戦った人々にまだ安らぎをあたえることが出来ていないのである。
もういちど、昭和天皇の語録、映像を振り返ってみるべきなんじゃないか? と真剣に思う。思い出すべきはあの昭和天皇の誠心誠意っぷりじゃないのか? と思うのである。
ただし、あのような誰かのメモでは無く、本人が残したものを見るべきである。そこにメッセージがあるのだから。
平和の本質、生きることの意味。それらを考える良い指針になると思うのだが。

いつものとおりの生意気な内容ですが、どうかみなさん御容赦をいただきたい。どうしても書いておきたかったのだ。