これが真実なんじゃ?

教師がイジメを誘発していたらしいって報道なんだけど…。何を今さらというか、いまになってようやっと表沙汰になったんだというか、自殺でもしないと真実は表にでないのかというか。教師がいじめを誘発させていたなんて、べつに今回が初めてでもないだろう。
俺さ、小学校のとき壮絶にいじめられてたよ。もう、毎日が戦争。明日殺されるんじゃないか、ならば自分が先に相手を殺す手段を用意しておかなきゃ、とか誰かを殺したらどうやって逃げようとか、そんなことを毎日考えなくてはいけないほど凄惨だった。
自殺には何度も失敗したから、生きていくなら誰かを殺すしかないと思っていた。当時まだいじめなんていう存在自体マイナーだったから、周囲の大人には「自分の力でなんとかしろ」とか「相手にするな」なんていわれていた。執拗で、陰険で自分より賢い相手を自力でなんとかする、相手にせずに済む方法って相手を殺すくらいしか考えられなかった。そして、俺のケースの場合完全に『教師が先導』したいじめだった。
今から20年以上も前の話だ。クラスで行われる暴力行為を増大させて、クラス会での決議までとって俺を虐待していたのは担任教師だった。
俺がクラスのガラス窓を割ってしまったとき、または同じクラスにいた児童が俺にボールをぶつけていてクラスの窓を割ったとき、全部俺が体罰をうけた。そのときに教師が「割れたガラスってのは危険です、この角がどんなナイフより切れるんです」と話せば、その知識をもとに不当な暴力を振るう教師に殺意とガラス片をもって向かっていった。いつか殺されると思っていた。極限状態だった。ベランダから担任を突き落とそうとしてベランダにしがみつく担任の手にガラス片を突き立てた。そうでもしないと自分が殺されると思っていた。結局担任は血なんて一滴も流さずにベランダからもどってきた。
俺をうつ伏せに寝させて、その上にクラスの男子全員乗せるて呼吸困難に陥らせる遊びを指導していたのも担任だった。クラスの他の男子が集団で俺に暴力をふるっているのを見てみぬふりをして俺が反撃すると体罰を喰らわしたりもした。俺が反撃することは徹底して禁止された。俺のプライドはズタズタに引きちぎられ、人格は徹底的に否定され、どん底を3年ちかく味わった。
俺に非がないわけじゃない。俺はいじめが始まったころはちょっとした問題児だったらしい。プロレスごっこで本気を出しすぎたらしい。でも、それで3年にわたって虐待されたのは行き過ぎだと思う。
今思うとよくわかることもある。俺が徹底的にいじめられるきっかけとなったクラス会の議案を提出した児童とその担任は同じ"組織"に所属していた。その児童は遠足などがあると決して神社に入らない人だった。教師は立場上入って引率していたが、その児童にはエライ理解があった。そして、後日聞かされた、彼らは同じ組織に属していたと。
結局、あの担任を勤めた教師はそのあとも教師を続けたのだろう。俺が通っていたのは私立だったし、教員の補充は楽ではないだろう。
俺が受けた虐待の数々はその後の人生に大きな影響を及ぼした。俺の自信はいまだに回復されていない。その後必死で受験勉強をして暴力地獄から脱出しようと試みたが、高校生になる位まで暴力の支配から完全に自由になることはできなかった。むしろ、受験して入った中学のほうが体罰が酷く、いつまでも続く暴力の連鎖に絶望した。
いまだに思う。あの時あの担任を殺せていれば、それなりの自信にもなったかもしれない。事件になって世間が自分の置かれていた環境に着目してもらってもっと早く世の中が改善にむけて動き出したかもしれない。なによりも、社会に巣食うダニを一匹退治できたかもしれない。
俺が完全に間違ったことを考えているのはわかっている。どんな場合においても人を殺すのはよくないことだ。実際にそんなことを行動に移せば自分が不利になる。
ただ、今になって思うのは結局俺はあの時担任を殺しても少年院に入るだけで、その後校正できたであろうこと、大人と同じ殺人罪には問われなかったであろうこと。そして、あの教師はいつまでも教師をつづけ給料をもらっていたであろうという事実を思うと腹が立つ。いじめの問題は被害者が自殺しない限り加害者天国になりがちだ。
あのことが事件にならなかったおかげで今でも社会から阻害されているような感覚におちいる。いじめの事件があるたびに世の中相変わらず不当だと感じる。自分がいじめられていた時のことを昨日のことのように思いだす。憤慨する。そして何故か自分だけは社会に波風をたててはいけない存在と無意識に感じる。
しかし、自分が正しいと信じているにも係わらず、とんでもなく不利な立場になると思いっきり世間を騒がせたくなる。国家権力を正当な目的のために使役したくなる。なるべくマスコミの耳に入るように騒ぎを大きくさせたくなる。それはあの時のいじめを事件にできなかったことへの後悔だろう。
実際にボストンにいたころ、長期にわたり犯罪に巻き込まれ、とんでもなく危険な状態になったときは地元の新聞にすら記事をのせさせることに成功した。実際これからも、何か危険があればそこまでやる覚悟だ。
まぁ、このエントリーを読んで「君が昔そうだったような児童がいるから指導がしにくいんだ」とおっしゃる向きもいらっしゃるかと思う。たしかにそうかもしれない。ただ、わかって欲しいのは俺に逃げ道はなかったこと。向かっていくいかしかなかったこと。大人が子供の暴力を抑制する方向にいっていたのなら、話はわかる。しかし、俺がいた環境は大人が子供の暴力を増長させていたのだ。俺のいた環境はきっと「君が昔そうだったような児童がいるから指導がしにくいんだ」とおっしゃる方が指導されている学校とは環境がずいぶん違うのかもしれない。
ただ、確実に言えて、どうしてもいいたいことがある。子供には自分の力ではどうしても解決できない問題があること。それが、大人からの虐待だということだ。
俺が小学生のころ、学校で味わった苦痛は虐待なのだ。なぜなら、教師という大人が先導、指導、補助をし、先頭にたって暴力行為を行っていたからだ。あれはどう考えても教師が虐待という行為に児童を手下として使役していただけだ。
今回の事件も真相は闇の中だ。もしかしたら、俺がうけた虐待よりはなまぬるいものかもしれない。ただし、教師がいじめに加担するというケースは虐待なんじゃないかと思う。
ついでにちかごろNEWSを見ていると格差社会と言う言葉やけに目に付く。俺は格差社会はおおいに結構だと思っている。ただし、俺を虐待した教師のように自分より弱いものを痛めつけることにようって従属させる人間、社会をありもしない噂でコントロールすることに全力をつくすような人間、仕事で扱う物の価値すらわからずに、このような無能で非道な人間が校正し、健全な社会の構築に前向きになるまで二度と動けないように社会の底辺に押し込めるならいい社会だ。実際はどうなんでしょうね? ま、格差がどうのっていう人間の8割位は働かなくても金はもらえると思っている人間でしょうな。もちろん、過去にはらった年金の受給をうけるのは「働かなくてもお金がもらえる」って発想とは別だと思ってますよ。
俺? 今は底辺だけど、社会の変化でこうなったとは思ってない。自分で選んだ道で失敗したからだ。ただし、俺の失敗の原因は自分の負っている『他人には理解されずらいハンディキャップ』に対する自覚が少なかったからというのも大きな要因だ。思ったより痛手だった。このハンディキャップには負けたくない。一生戦うつもりだ。ただ、ハンディと戦うということがいかに厳しいことかも知っている。それでも生きていこうと思った。一度くらいいい思いをしたいから。働かずに金稼ぐとかじゃなくて。人並にお金があって自由な暮らしがしてみたいと思ったから。社会のなかでみなと同じく輝いてみたいと思ったから。